「性的貞節こそが人間(女性)としての価値」から、「性的魅力こそが人間(女性)の価値」への転換はどのようにして起こったのか——ルッキズムとは何なのかをめぐって - 晶文社スクラップブック
18世紀後半〜19世紀の西洋において、人間の「内面の美しさ」や「美徳(virtue)」とは、性的な慎み深さのことを指し、これがブルジョワ階級を、労働者階級や貴族階級といった他の階級から区別する目印となってきた。とくにブルジョワ階級の女性にとっては、貞節を守ることこそが「ブルジョワ階級の女性」であり続けるための条件であり、財の配分を得続けるための必須条件であった。 これに対して、250年後の現代では、むしろ性的魅力が高いことが、財や社会的地位を得るために必要なこととみなされるようになった。「美徳こそが人間の価値である」から、「性的魅力こそが人間の価値である」へと変化したのである。18世紀の時点ですでに女性の場合には外見が美しいことが「女性としての価値」とされてきたことを踏まえて、厳密に言い直すならば、性的貞節に価値を置く意味の地平が消失し、それに変わって「性的魅力」に価値を置く価値基準が強まった。外見的美しさに価値を置く価値観は長い歴史的スパンで見られることであるが、20世紀以降、性的なもの(セクシュアル)の価値が上昇し、人間の価値が性的なものとの関係で判断されるようになった。 社会学者のエヴァ・イルーズも、現代では「官能的魅力と性的成果」がその人に「社会的価値」を付与する「新しい方法」となったのだ(イルーズ, 2011=2024, 『なぜ愛に傷つくのか』, p.77)と論じている。現代では性愛相手として誰かに選ばれるかどうかがその人の人間としての価値を示すものとして受け取られるようになった。そのために、デートの成功は「単に自慢できるだけでなく、より根本的な意味で(その人に)社会的価値をもたらす」ものになったのだという議論をイルーズがしている(p.77)。 もちろん、19世紀までの美徳こそが人間の価値とされる時の「人間」と、20世紀以降の外見的魅力こそが人間の価値とみなされるときの「人間」は、意味も定義も異なっている。その点こそが、ポストヒューマン論/ポストヒューマニズム論において考えられていくべき点であるが、この論点は次回以降に譲る。 今回は、「人間の価値」が社会的に評価されるときの通俗的・一般的な評価基準が、性的貞節から性的魅力へという形でほぼ真逆へと転換した。この転換は、いったいどのようにして起こったのか、その歴史的経緯を概観しながら、ルッキズムとは何なのかを考